ボン・マルシェ 「赤い風車」外伝

ホッチはいつも決まった時刻に目が覚める。作家業なので、眠りに就く時間はまちまちなのだが、それでも毎日、同じ時刻に起きることができた。ベッドサイドの小さな台に置いてある懐中時計で時刻いを確認すると、やはり、いつもと同じだった。懐中時計を持つ自分の手と反対側の腕は、リードの頭に占領されていた。くうくう、と寝息を立てている。今日はカフェの仕事は休みだった。だから、本当はこのまま寝かせておいてやりたいと思う。しかし、以前、リードが休みの時にそのまま寝かせていたら、起きた時に可愛らしい唇を物凄く尖らせて、拗ねたのだ。「どうして、一緒に起こしてくれなかったの!」と。どうやら、休みの日に、ホッチと一緒に過ごす時間はとても貴重なものらしい。こうして一緒に暮らしているのにも関わらず。

ホッチは懐中時計を置くと、空いた手で、リードの柔らかな短い髪を撫でた。

「リード」

そっと名前を呼ぶと、もぞっと身体が動いた。そして、うっすらと瞳が開く。

「・・・起きるか?」

「ん・・・」

まだ寝ぼけているような返事。けれども、緋牡丹の襦袢で包んだ身体をホッチに擦り付けながら、少しずつ覚醒しつつあるようだった。そんなリードの髪を何度も撫でる。まるで、猫を撫でているような感じだった。

「・・・気持ちいい・・・。ホッチの手は、いつだって、暖かいね・・・」

「まだ、寝ててもいいんだぞ?」

「嫌だ・・・起きる・・・」

リードは両手をベッドに付いて、身体を起こした。

「ふあ・・・」

腕を大きく伸ばして、欠伸をする。肌蹴た襦袢から覗く白い肌が綺麗だった。

「んー・・・おはよ、ホッチ。起こしてくれてありがとう」

「そうしないと、君は怒るからな」

「当たり前でしょ?ホッチとお家で一日中のんびりできるんだよ?貴重だもん。寝てるなんて、もったいないもん」

「そんなものか?」

「そういうものなの。・・・今日は、お天気が良さそうだね。お散歩とか、行く?シャンゼリゼのカフェ・コンセールとか」

「リードの好きなことでいい」

「・・・ホッチは、今日は物語を書かないの?」

「昨日、だいぶ筆が進んだからな。今日は、君に付き合う」

「嬉しい。・・・どこがいいかなぁ・・・」

ベッドの上で考えを巡らせているリードを見ながら、ホッチは、ふと思い出した。先日新聞社に行った時に見た広告のことを。

「リード。もし君が嫌でなければ、ボン・マルシェに行ってみようか」

「え?あの百貨店?カフェのお客さんも凄い話題にしてるところだよ?」

「俺は新聞広告で見ただけだ。しかし、売り言葉が面白くてな」

「うん。買い物って、すごく敷居が高いんだけど、ボン・マルシェは大衆的な百貨店だから、入りやすいんだって。ショーケースに品物が並んでいたり、セールをやっていたり」

「ああ。そうだ。セールの広告だった。小説にネタになりそうだし、どうだろうか?」

「行ってみたい!」

「じゃあ、決まりだな。ああ、リード。赤いドレスを着て行くといい」

「いいの?それって助かる。僕、このアパルトマンとカフェの往復くらいしかしないから、外出用の服ってドレスくらいしかないんだよね。まさか、ギャルソンの格好で百貨店なんて笑えちゃうし」

「君はどんな格好をしていても素晴らしい」

「ホッチ・・・もう、褒め上手!何にも出ないよ!」

笑いながらリードがベッドから降りた。部屋の中を緋牡丹が舞う。ホッチもベッドを出て、身なりを整えることにした。

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もう秋は終わり告げ、冬と言っておかしくないくらいの季節になった。天気は良いが、空気は冷たい。リードは長袖の赤いドレスを小さなクローゼットから出して身につけた。それから絹の長靴下を履き、ドレスの中に手を入れて、ガーターを留める。そして、黒いショールを肩から掛けた。ホッチはいつものフロックコート姿だ。

「ドレスを着ろと言っておいてなんだが・・・寒くないか?コートは?」

「持っていないよ?仕事に行くときのコートは男物だから、変でしょ?。大丈夫。今日はお日様も出てるから」

リードは笑いながら言うと、赤いハイヒールを履いた。

「ショールが黒だから・・・やっぱり、ガルシアからもらった黒のバッグにしよっと」

リードは小さめの黒いハンドバッグに必要なものを詰めると、「できたよー」と言ってホッチを見た。赤と黒は相性がいい。シックでありながら、リードが着ると可愛らしさも醸し出していた。ビーズ刺繍であしらわれた黒いバッグのせいもあるのかもしない。赤いルージュを引いた唇が、ムーラン・ルージュの踊り子を思い出させる。髪は短くなっても、ドレス姿が似合う。

「僕がお休みの日にエッチしないって珍しいよね」

赤い唇がとんでもないことを言う。しかし、事実なので、ホッチも苦笑するしかない。一緒に部屋にいれば、ついつい、お互いを求めてしまうのだ。ホッチはリードの腰に手を当てると、その頭頂部に軽くキスを落とし、部屋を出たのだった。

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パリ7区のバック通りにあるボン・マルシェは、世界初の百貨店と言われている。その販売方法はそれまでと大きく異なり、非常に大衆的で、庶民にも買い物がしやすいとい評判だった。価格も安かったし、ショーウィンドウに陳列された商品を自由に見ることができた。来月がノエルということもあって、それに向けた商戦もしかけているらしかった。リードはホッチの腕に自分の腕を絡めて、寄り添うようにして歩いた。その手に手袋は嵌めていない。持っていないのだろう。「赤いドレスで」と言ったことをホッチは後悔した。別にいつもの姿のリードでも良かったのだ。ただ、極たまに、リードのドレス姿を見たくなる自分の欲を押し付けただけだ。申し訳ないと思う。ボン・マルシェに着いたら、まずは1階のカフェ・ド・ラ・ペに入って、暖かいカフェ・オ・レを飲ませてやろうと思った。しかし、隣を歩くリードの表情はひどく嬉しそうで、楽しそうで。

「ホッチ?僕ね、前にも言ったけど、貴方と一緒にいると、とっても暖かいの。嘘じゃなくて、それって本当のことなの。きっと幸せで、心が暖かいからだと思う。だからね、ありがとう、ホッチ」

リードはギュッとホッチにしがみついた。

「おいおい、リード。それじゃあ、歩けないぞ」

「あはは。そうだね」

腕を絡めることはやめず、リードはほんの少しだけホッチから離れた。一瞬ホッチの手に触れたリードの手は、とても冷えていた。

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ボン・マルシェの外観を見て、それまでおしゃべりだったリードの口数が少なくなった。それは今まで見たこともないほどに大きな商業施設だったからだ。ようやく、絞り出した言葉が「僕、ここに入ってもいいの?」だった。ホッチは苦笑して、「客なんだからいいに決まってる」と返した。尻込みしているリードを少し引きずるようにして、暖かな店内に入った。吹き抜けのホール。上のフロアに繋がる螺旋階段。明るさと品物に圧倒されるような空間。ホッチはまず、リードをカフェ・ド・ラ・ぺへと連れて行った。冷え切った身体をカフェ・オ・レで暖めてやりたかったのだ。脚が竦んでいるリードを無理矢理、椅子に座らせて、勝手にカフェ・オ・レを2つ注文した。

「保、ホッチ・・・僕、こんなところに座っていいのかな・・・?」

「いいに決まってる。客なんだから」

さっきと同じ言葉を言った。

「で、でもさ・・・ホッチはちゃんとした貴族だからいいけど・・・僕・・・庶民なんてもんじゃない、庶民だし・・・」

「今の俺は貴族じゃない」

「でも、なんか、すごく堂々としてて、落ち着いてて、ものすごく何ていうか、その・・・こういうところに居てもおかしくない・・・ホッチは・・・やっぱり、血は争えないっていうか・・・」

「リード」

ホッチは口調をきつくした。ようやく、リードは口を閉じた。ホッチを怒らせたと思ったらしい。しかし、ホッチは怒ってなどいない。確かに自分は貴族の出自ではあるが、その身分はもう捨てたのだ。その力を使って、リードを失いかけた。同じ失敗は二度としたくない。

「ほら、温まるから。飲んでごらん」

「・・・うん」

リードはカフェ・オ・レ・ボウルを両手で持つと、そっと傾けて一口飲んだ。

「んんっ!・・・美味しい・・・」

「そうか。それは良かった。ゆっくり飲んで、身体を温めるといい。店の中を回るのはそれからだ。リードは甘いものが好きだから、このマドレーヌも好きだろう?美味しいぞ。まあ、これは新聞社の人間に聞いた話だが」

「評判なの?」

「そうらしいぞ」

「・・・物語のネタになりそう?」

「そうだな。君が傍にいてくれたら、俺が話をかけなくなることなどないだろうがな」

「何、言ってるの、ホッチ」

リードは恥ずかしげに俯いて、ボウルに口を付けた。そんなリードの姿を、ホッチは柔らかな笑みで眺めていた。

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甘いマドレーヌを食べて、温かなカフェ・オ・レを飲んで、少しはリードの心は解れてきたらしい。笑顔でホッチとの会話を楽しめるようになっていた。しかも、「カフェ・オ・レとマドレーヌのお代わりをしてもいい?」とまで言うようになった。もちろん、ホッチに「「否」はない。すぐにギャルソンを呼んでオーダーした。リードの姿は完璧で、この空間の中で、艶やかな貴婦人のようだった。美しくて、可愛らしい。もっと良い生活をさせてやりたいと思う。しかし、だからといって、貴族の力を使うつもりは全くない。自分の努力で成功したい。そして、リードを喜ばせてやりたい。

「はぁ・・・美味しかった・・・幸せ・・・」

「そうか。それは良かった」

「あ、でも、一番の幸せは目の前にホッチがいることだからね!」

「そうだとありがたい」

「それしかないの」

「そろそろ、店内を回ろうか?」

「うん!」

ホッチはテーブルでチェックを済ませ、リードを伴って、カフェ・ド・ラ・ぺを後にした。リードがそっと腕を絡ませてくる。ホッチはそのままにしておいた。嫌ではない。むしろ歓迎だ。この可愛らしい子羊が自分を必要としてくれるのは。

ボン・マルシェの店内は、すでにノエル仕様となっていた。ノエルのプレゼントとは別に、今日はリードに買ってやりたいものがあった。散歩するように店内を巡りながら、ホッチは売り場やショーケースをチェックした。そして。

「リード。ちょっとこっちへ」

「なあに?」

そこには婦人物がたくさん並んでいた。ホッチは素早く、視線を走らせた。

「ああ。あれがいい」

ホッチが動くのに合わせて、リードも歩く。

「何?何なの?ホッチってば」

「これだ」

ホッチはハンガーかけて展示されている赤いコートを手に取った。そして、それをリードの身体に当てる。

「ああ。やっぱり、君は赤が似合うな」

「え?ええ?コート?僕に?え・・・だって、僕、お金を持ってきてないよ?っていうか、元々持ってないけど・・・」

「俺が買ってやるんだ。やはりコートは必要だ。パリの冬は寒い。ショールだけじゃダメだ」

「だけど・・・」

「いいから。・・・サイズは・・・こっち方だな」

ホッチは同じデザインの別なコートを手にして、リードから黒いショールを取ると、背後に回ってコートを着せかけた。

「こっちを見てごらん」

リードはホッチに向き直った。

「似合うな」

「まあ、本当にお似合いですこと」

いつの間にか、店員が傍に来ていた。

「この娘にコートを、と。赤が似合うと思ったんだが、どうだろう」

「お客様。お見立てがよろしゅうございます」

「じゃあ、決まりだな。コートはこのまま着て帰りたい」

「素敵ですね。ちょうどその黒いショールを首回りに巻くのも素敵です、お客様」

「そうだな。ああ、それと、手袋を見たいんだが」

「それでしたら、こちらに」

ホッチが案内されて手袋を物色する。その姿、唖然とリードは見ていた。

「お色は黒をお勧めします。赤いコートとのコントラストが良いですわ。こちらの手首にファーの付いたものはいかがでしょうか」

「いいな。じゃあ、それを貰おう。今日はうっかりと手袋を忘れて外出してしまってね」

「そうでしたか。それでは、コートと手袋の値札をお取り外ししますね」

そう言った店員は、手早く値札を切り、手袋をリードに渡した。

「あ・・・ありがとうございます」

「ちょっと嵌めてごらん」

ホッチに促されて、リードは恐る恐る、自分の手を手袋の中に滑り込ませた。いつも嵌めている、毛糸のほつれた手袋とは全然違う。滑らかな手触り。コートも暖かい。ホッチが、リードの首回りに、黒いショールを巻いた。

「ああ。店員が言う通りだな。さすが専門家だ」

「恐れ入ります」

ホッチは支払いを済ませて、リードと一緒に売り場を離れた。

「ねえ・・・ホッチ・・・ごめんなさい。何だか・・・お金を使わせちゃって・・・」

「最近、小説の評判がいいんだ。それなりに稼げるようになってきた。・・・君のおかげだ」

「僕、何にもしてないよ?」

「俺なんかと一緒に居てくれている」

「何を言ってるの!僕が居させてもらってるんだよ?」

驚いたようにリードが言った。

「僕が貴方を必要としている!」

「俺もだ」

ホッチとリードは、顔を見合わせて、一瞬、黙った。そして笑い合う。

「一緒だね、僕たち」

「そうだな。さあ、見るものはまだまだありそうだ。品物もそうだが、ここの建築様式も見る価値があるそうだ」

「うん。僕もそれが気になってた」

「一周りして、最後は食堂で食事をして帰ろう」

「あ、そこは僕が払うからね!」

「大丈夫か?」

「だって、ここは大衆的な百貨店なんでしょ?2フラン・・・んー3フランくらいあれば大丈夫かな」

「たぶんな」

「それなら、大丈夫。持ってる!」

「わかった。じゃあ、そこはご馳走になることにしよう」

「でも、もし、足りなかったら・・・貸してね?」

「任せろ」

もう一度、二人で笑いあった。そして、腕を組むと、ボン・マルシェの中の探索を再開したのだった。

END