居心地の良いところを探して、リードの裸身がもぞりと動いた。ホッチは、情事のおかげで、せっかく持った熱が冷めないように、その細い体を抱き締めてやった。季節は秋から冬へと移行している。古いアパルトマンの屋根裏部屋は、小さな暖炉はあるものの、最近は随分と夜が冷えるようになってきた。珍しいテラスのせいだ。夏はいいのだが、この季節は隙間風が入ってくる。リードが風邪をひいてしまわないように、寝間着を買ってやりたいと思う。リードは「ホッチの体温が高いから暖かくていいよ。裸でも平気」とは言うが、原稿を書いて夜が遅くなり、カフェで働くリードを先にベッドへ行かせることもある。やはり、寝間着は必要だと確信する。明日、新聞社に出向く用事があるから、蚤の市にでも足を伸ばしてみようか。本当なら、新品の寝間着を買ってやれたらいいのだが、ホッチの収入はそこまで高くはない。しかし、自分はいくらでも我慢できるが、リードに寒さやひもじさを我慢させるようなことはしたくない。そういえば、手袋も「穴が空いちゃった」と言って、繕っていたことを思い出す。ホッチは腕の中のリードの頭にキスを落としながら、明日の計画を立て始めた。
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「え?これ、貰ってもいいの?こんなに?」
「ああ。ちょっと作りすぎた。明日になりゃ、売り物にはならないからな。本当なら給金を上げてやれればいんだろうが、まあ、それで勘弁してくれ」
店のオーナーが、ガハハと笑いながらリードの肩を叩いた。
「ううん!嬉しい!クロワッサンも、ブリオッシュも、パン・オ・レザンも・・・こんなに!このカフェのパンは本当に美味しいから!」
「嬉しいことを言ってくれるなぁ、リードは!」
「だって、本当に美味しいんだもん!」
「そうか、そうか。じゃあ、明日もよろしく頼むな。冷え込むから、暖かい格好をして来いよ!」
「うん!」
リードは少しへたってしまったウールのコートを着て、先日繕った手袋をはめた。そしてパンの入った紙袋を大事そうに持つと、カフェのオーナーに手を振って、店の裏口から外へ出た。寒風が鼻を撫でる。確かに、冬が近づいていて、空気はひんやりと尖るように冷えていた。しかし、リードの心は温かい。ホッチと暮らしているからだ。それだけで、幸せで、心が温かいのだ。リードの働くカフェからアパルトマンへはすぐだ。初めてホッチに抱いてもらった翌朝に連れて行ってもらったカフェ。クロワッサンはもちろんのこと、ブリオッシュも美味しい店だった。リードがモンマルトルを離れ、モンパルナスで働いていたところを、ホッチに連れ戻された。もうムーラン・ルージュに戻ることはないと、髪を短くしたリードは、ギャルソンとして、そのカフェで働くことにした。髪を短くし、化粧もしないリードを、ムーラン・ルージュの元踊り子だということを、カフェのオーナーはすぐに見抜いた。しかし、リードを一人の人間として扱い、雇ってくれたのだった。
「ただいまー!」
物書きのホッチは、基本的にこの屋根裏部屋が仕事場だ。たまの休日に二人で出かけるか、出版社や新聞社に用があるときくらいしか、ホッチは外出はしなかった。リードがいるから、当然、夜遊びもしない。案の定、ホッチは古びた机に座って、書き物をしていたようだった。しかし、リードの姿を認めると羽根ペンを置き、椅子に座ったまま振り向いた。
「おかえり、リード。外は、寒かっただろう」
「ううん。全然!それよりもね、今日はお土産。オーナーがね、パンをいっぱいくれたの。作りすぎちゃったんだって!」
「そうか。・・・おいで、リード」
「うん」
リードは丸テーブルにパンの入った紙袋を置き、コートを脱ぐとホッチに近づいた。ホッチは、自分の膝をポンポンと叩いた。リードはそれを見ると笑顔になって、その膝に跨ぐようにして座った。
「僕の身体・・・冷たくない?」
「大丈夫だ。温かい」
「よかった。今日も、ずっと書いてたの?」
「いや、連載のことで新聞社に行っていた」
「そうか・・・もう、そろそろ最終回?」
「年内にな。しかし、また新しい連載の話をもらった」
「ええ!凄い!凄いね!ホッチ!」
リードは嬉しそうに頬をすり寄せた。物語を紡ぐために、ホッチはイギリスから、このパリへと来たのだ。愛する人が夢を叶えているのを、リードは心から喜んだ。
「だから・・・ちょっとした前祝いに、君に贈り物を・・・」
「そんなの!本当は僕がホッチにおめでとうの贈り物をしなくっちゃ!ああ・・・どうしよう・・・僕に何かできること、ある?」
「素直に喜んでくれるだけで充分だ。それよりも・・・」
ホッチは机の端に置いておいた箱を手に取ってリードに渡した。
「なあに、これ・・・あ・・・ああ!ドゥボーブ・エ・ガレ!!!」
「知ってるのか?」
「うん!パリで有名なショコラトリーだよ!ムーラン・ルージュのお得意様が、時々楽屋に差し入れてくださったりしたんだ。でも・・・どうしたの?」
「リードは甘いものが好きだろう?だから、買った」
「・・・好きだけど・・・でも・・・」
ホッチはリードの髪を撫でた。きっと、金額のことを気にしているのだろう。確かに、そう安いチョコレートではなかった。しかし、新聞社の担当が勧めてくれた店だった。パリの女性たちに人気のショコラトリー。決してリードは女性ではないが、甘いものが好きならきっと気にいるだろう、と。
「ほら。開けてみるといい」
「いいの?」
「当たり前だろう?リードのために買ったんだから」
ホッチは安心させるように笑った。たくさんは買えなかったが、とても美しいボンボンショコラの詰め合わせを買った。
「うわぁ・・・綺麗・・・。ドゥボーブ・エ・ガレのチョコレートは、まるで宝石みたいなんだ。食べることのできる宝石みたいなんだよ」
綺麗な造形の指先でボンボンショコラを1つ手に取ると、それを空中に翳し、美しい造形を眺めた。繊細な装飾を施された1粒のチョコレート。
「ほら」
「うん。ありがとう、ホッチ」
リードはそっとボンボンショコラを口に運んだ。表面のチョコレートは当然、甘い。口の中で大切に転がす。リードはうっとりと目を閉じた。
「美味しいか?」
リードは頷いた。軽く歯を立てると、さらに甘いプラリネが口腔に広がる。自然と笑みが溢れる。そんなリードの表情を見て、ホッチは思わず申し訳ない気持ちなった。もし、リードが’今もムーラン・ルージュの看板娘であったなら、キャバレーの売れっ子の踊り子であったなら、毎日のように、大好きな甘いものを口にできていたかもしれないのだ。そんなささやかな幸せを奪ってしまったのは自分だ。そして、もっと綺麗で暖かな服に身を包み、心身共に暖かな生活をすることもできただろう。カフェのギャルソンであるよりも、キャバレーの踊り子の方がずっと給金は高い。
「ホッチ、変なこと考えてる?」
気づくと、リードがじっと自分を見つめていた。
「・・・そんなこと、ないぞ」
「嘘だ。ホッチ、僕は今の生活がすごく幸せなんだよ?だって・・・貴方が一緒なんだもん。それ以上に幸せなことってある?もちろん、甘いチョコレートは大好物。でもね、僕はもっと甘いものが好きなんだ」
「チョコレート以上に甘いものがあるのか?」
「うん。・・・ホッチとのキス。それが一番甘いの」
そう言うと、リードはホッチに唇を押し付けてきた。チョコレートの甘さが移り伝わってくる。
「大好き・・・ホッチが一番・・・。あ、僕、もっとチョコレートを美味しく食べる方法を思いついちゃった!」
「?」
リードは優雅にボンボンショコラを口に含むと、再びホッチにキスを仕掛けてきた。ただし、少しだけ唇を開けて。器用に舌を使って、溶けかけのボンボンショコラをホッチの口の中に滑りこませてくる。ホッチはそれをひと舐めすると、リードの口の中に戻す。そんなことを繰り返しているうちうに、ボンボンショコラは完全に溶けきった。
「美味しかった?」
「ああ・・・本当に、美味しいな」
「でしょ?。ふふ。・・・ホッチ、チョコレート、ありがとね。また、後で一緒に食べようよ。あ、ホッチは甘いの苦手だったっけ?」
「君とこうして食べるなら、ちょうどいい」
「よかった。今夜は、残り物の野菜でシチューを作るね。ホッチはお仕事してて。ね?」
リードはするりとホッチの膝から降りると、小さな簡易キッチンへと向かったのだった。
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「あれ?今夜はもう、お仕事おしまいなの?」
服を脱いだリードがベッドに行こうとすると、ホッチも一緒に来たので、そう声をかけた。
「ああ。新連載の構想を練らなくちゃいけないが、それはもう少し後でいいから」
「一緒に寝れるの嬉しい」
リードは破顔した。赤いルビーのネックレスで首を彩られただけの裸体をベッドに潜り込ませようとしたら、ホッチに腕を掴まれた。
「ホッチ?」
リードが振り向いた。
「もう、寒いから、これを着るといい」
ホッチは後ろ手に隠し持っていた物を前に持って来て、リードの肩にかけてやった。
「なあに?これ・・・なんだから、さらってしてて、肌触りがいいね。それに・・・」
リードは両手で自分に掛けられた布を持って、目を寄せる。
「とても綺麗な花柄。白地に赤やピンクの花って・・・何だか、ムーラン・ルージュを思い出すね。でも・・・何だろう・・・これ異国のもの?」
「ああ。蚤の市で見つけたんだが、日本の着物の中に着るものらしい。詳しいことはわからないが」
「へえ・・・日本の?そういえば、モンマルトルの画家が集まるところに、日本人がいるよ?うちのカフェにもたまにくるんだ。日本で絵を描いていたけど、やっぱりパリで絵の勉強がしたいんだって」
「そうか。そういえば、日本の陶器を包むのに使われた浮世絵が、ものすごいブームだな」
「そう!それ!それもあるんだよね。そっかぁ・・・これ、日本のなんだ。今度、その画家さんに聞いてみようっと」
「言葉は通じるのか?」
「うん。カタコトだけど、フランス語を喋ってるよ、その画家さん。それよりも・・・今日のホッチ、ちょっと僕にお金を使いすぎじゃない?」
リードが少し眉を顰めた。
「毎日じゃない。・・・たまにしか、こんなことをしてやれない。・・・すまないな」
「何を言ってるの?さっきも言ったよ?貴方がいてくれるだけでいいの。・・・僕を・・・捨てないでくれたら・・・それだけで、嬉しい・・・」
「捨てるなんて・・・そんなこと、有り得ない」
「でも、ホッチが売れっ子の作家になったら・・・わからないもん。社交界とか・・・サロンとか・・・そういうとこに出入りするようになったら・・・わかんないもん・・・」
「リード。悪いが、俺の執着心を甘く見るな。君をモンパルナスに連れ戻しに行ったのは、俺だぞ。全く。心配性だな」
「心配にもなるよ?貴方は・・・素敵だもん」
「君もだ・・・。ほら、こうして袖を通して」
ホッチがリードの腕を取って、襦袢を着せる。素材は絹だから、薄いけれども上質で暖かいものだと店の主人が言っていた。花柄もリードによく似合う。緋牡丹・・・と言っていただろうか。首を彩るルビーとの相性も良い。
「専用の紐があるらしいんだが、それは結ぶのが難しいと言っていた。だから、その代わりにこれを・・・」
「これは?」
「なんとか帯・・・と言っていたな。すまん、忘れた。今度、その日本人の画家に聞いて見てくれ」
「うん。そうする」
ホッチがリードのウエストに書きつけたのは赤い兵児帯だった。縮緬の絞りだ。しかし、異文化故に、詳しいことは二人とも分からなかった。
「綺麗で・・・可愛いね・・・こういうの、好き。やっぱり、ムーラン・ルージュで働いていたせいかな。男のくせに変だよね、僕」
「そんなことない」
ホッチはリードにキスを落とした。
「さあ、寝るか」
ホッチはリードをベッドに促した。
「ねえ、ホッチ?」
「ん?」
せっかく着せてくれたけど・・・意味ある?」
「脱ぐ気満々だな」
「うん!だって、幸せだもんだもん!だから・・・もっと僕に幸せをちょうだい!」
「貪欲だな。しかし・・・嫌いじゃない」
ホッチは横になったリードに覆いかぶさると、適当に結んだ兵児帯に手をかけて解いた。緋牡丹の襦袢の中で泳ぐリードの姿が、眼に浮かぶようだった。
END