「ふわぁ・・・」
粗末な服を着たスペンサー・リードは、その大きな屋敷を見て、思わずおかしな声を上げてしまった。下級層で暮らす自分には、まるでお城のように映ったのだ。
「みっともない声を出すものではありません」
隣に毅然と立っていた、この屋敷の女中頭であるハウス・キーパー、ストラウスに窘められる。
「はっ・・・はいっ!」
リードは、その厳しい声に背筋をシャンっと伸ばした。
「お前の立場は、自分できちんとわかっているね?」
「・・・はい」
リードは神妙に答えた。
「それなら、いい。この屋敷に入り、まずは身体を洗い、身なりを整えることが先決だ。お前からは、貧民窟の匂いがする」
「ご、ごめんなさい・・・」
「まあ、そういうものなのだろうね。Ωが生きる世界というのは・・・。私には理解しがたい世界だがね」
「・・・すみません」
「ふん。しかし、今の世の中では、男だろうが女だろうが、子を孕める器は非常に貴重なものさ。せいぜい、この家に貢献するがいい」
そう言い放つと、ストラウスは足を進めた。鉄の門を潜り、それから数分歩かないと、屋敷の玄関には辿り着かない。
庭。
美しい庭だ。庭師に手入れされているであろう、整えられた、花や木。リードは、純粋に「綺麗だな」と心の中で思った。貧民窟では見ることのない景色。風景。ここは、何もかもが美しに違いない。
ストラウスは、表ではなく、裏口へとリードを導いた。裏口といっても、リードにとっては充分に立派すぎる玄関だった。
「エミリー!JJ!ガルシア!」
ストラウスが、3人の名前を呼んだ。すぐに、お仕着せに身を包んだハウスメイドたちが現れた。
「この子が、今日から、この屋敷の侍女になるスペンサー・リードだよ。まずは、この汚らしい身体を綺麗にしてやっておくれ。このままでは、ご主人様に引き合わせることができないからね」
「かしこまりました」
エミリーが無表情に答え、前に進み出るとリードの腕を掴んだ。
「あっあの・・・僕、汚いから・・・触らない方が・・・」
「すぐに綺麗にしてあげるから。ご主人様好みに」
いつの間にかリードの隣に立った金髪のメイドがリードの耳元で囁いた。
「行きましょう」
眼鏡をかけたふくよかなメイドが促した。
「後は任せたよ。私はご主人様にご報告に行ってくるから」
ストラウスは、返事を待つこともなく、その場を去った。
扉が、バタンッと閉まる。そして遠ざかる足音。その足音が消えた瞬間・・・。
「きゃあっ!待ってたわ!えっとリード?スペンサー・リードって言ったかしら?」
「ほんっとに細いわねぇ!まあ、いいわ。これから美味しいものをいっぱい食べたら、身体もしっかりと丈夫になるから!」
「そうそう。貴方のメイド服は私が最高級の生地で誂えたから!」
3人のハウスメイドたちは、さっきとは打って変わって、朗らかな声を出してリードに話しかけてきた。
「えっ・・・えっ・・・」
「まずは、お風呂ね。さあ、こっちよ1こっち!」
「お湯の温度は適温!素敵な香りのシャンプーや石鹸も用意しておいたから!」
「バスタオルはこれを使ってね。小さめのタオルはこれ。それからブラシ。着替えはここよ」
「本当なら、私たちが磨き上げてあげたいところだけど、流石にリードは男の子だから、恥ずかしいわよね」
「私たちは隣の部屋で待ってるわ。冷たい飲み物を用意してね」
「それに甘いお菓子もよ」
「もし着替えに困ったら、遠慮なく声をかけてね?手伝ってあげるわ」
「メイド服って、結構、複雑だものね」
「あはは。それはエミリー、貴女の場合はでしょ?」
「そうそう。ホッチナー家のメイドにして、ご主人様の近衛兵なんだから」
「じゃ、リード。お風呂はゆっくりでいいから」
かしましく、捲し立てて、3人のメイドたちはリードを風呂場に残し、出て行ったのだった。風呂場に取り残されたリードは、
「ふわぁ・・・」
と、屋敷を見たときと同じような声を出してしまったのだった。
********************
ボロボロで汚い服を脱いだリードは、それを何処に置くか迷ってしまった。おそらく、この服を着ることはないかもしれない。あるとしたら、この屋敷を追い出されるときだ。だから、「捨てる」という選択肢はなかった。風呂の後で、こっそりと洗うしかないな、と思った。しかし、まずは自分の身体を少しでも綺麗にすることが先決だった。隣の部屋には3人のハウスメイドたちを待たせているし、それに、この汚い身体では自分の役目を果たすことはできない。
リードは温かな湯船に浸かった。石鹸を海綿に擦り付け泡立てる、その泡を腕に滑らせると、白い泡はあっという間に黒くなった。それほどまでに自分の身体は汚らしいのだ。慌てて力を入れて身体を擦った。このままでは、自分の役割は果たせない。あの貧民窟から救い出された理由はただ1つ。自分が、この世界の中で、非常に貴重な、子を孕める器だからだ。
撫でるだけでは、この身体は綺麗にはならないだろう。擦り傷を付けるわけにもいかない。難しい力加減をしながら、リードは一生懸命、自分の身体を擦り続けた。
******************
20××年。
原因が何かはわからない。何処の国の生物兵器か、それとも異常気象か、もしかしたら人間の神への冒涜に対する罰なのか。世界中の出生率が激減した。それまで、出産と育児を担っていたβの出生率が減少したのだ。街の中で、子どもの姿を見ることは少なくなった。子を持つ過程は優遇される社会になった。特権階級。β同志の結婚ではなく、とりわけ出生率が高くなる、αとβの結婚が推奨された。しかし、それでも出生率の低下を防ぐことはできなかった。そこで注目されたのが、Ωの存在だった。卑しまれ、蔑まれ、社会的地位などないにも等しかったΩは子を孕む確率が高いことは科学的にも証明されていた。しかし、卑しい身分であるΩを妻として家に迎え入れる男はいなかった。そこで考え出されたのが、Ωをメイドとして雇い、秘密裏に孕ませ、出産させる・・・というものだった。αとβの夫婦は、Ωをメイドとして雇い、子を孕ませ、そしてあくまでも自分たちの夫婦の子として登録し育てるのだ。そして、何度も子を産み、年が嵩み、用済みになったΩは、再び貧民窟へと捨てられる。
Ωは国に管理されている。もちろん、Ω登録されているだけで、社会的な保障は何もない。政府の黒いバンが突然貧民窟に現れ、Ωを連れ去り、必要としている家庭へと繋ぐのだ。
スペンサー・リードもある夜、突然現れた政府の人間に黒いバンに詰め込まれた。他にも数名のΩがいた。体育館のようなところに集められたΩたちは、教育を受けた。メイドとしての教育。実践を伴わない、子を孕む教育。主人に仕える教育。そして、神の御霊に従う教育。必要最小限の食事を与えられながら、数週間の教育を受けた。社会的地位に低いΩは、学校に通い、学ぶということはできなかった。生きるために食べる。生きるとは、そういうことだった。ひもじい思いをしながらも、死なない程度に食べるものを得ることが、生きることだった。見目の良いΩは、わずかなお金で少しでも自分を身綺麗にし、身体を売ることで、生きながらえる者もいた。けれども、リードにはそういった道は選べなかった。毎日、お腹を空かせながら、路地裏の隅っこで身体を丸めて座っていた。
その生活が、変わる。
それが幸福なのかどうかはわからない。Ωの自分には人生の選択肢はない。ただ、流れる川に落ちた葉のように生きるだけだ。
髪も顔も身体も。完璧ではないかもしれないが、自分ができる得る限り擦り終わると、リードはようやく風呂を出て、バスタオルで身体を拭いた。ドライヤーで髪も乾かす。整え方はわからなかった。後で、あの3人のメイドに聞いてみようと思った。彼女たちから教わることはきっとたくさんあるだろう。
置かれた着替えを手に取る。黒いメイド服。白いエプロン。けれども、それ以外のものがよくわからなかった。おそらく下着なのだろうが、リードに理解できるのは白いパンティだけだった。仕方なく、パンティを穿き、メイド服を着ると、それ以外のものを両手に抱えて、リードはそっと隣の部屋へ続く扉を開けたのだった。