1週間が過ぎた。その間、ハーヴィーが娼館に訪れることはなかったが、いつ彼が現れてもいいように、マイクは毎晩、綺麗に身支度をして待っていた。日付が変わってもハーヴィーが現れなければ、チョコレートを1粒食べる。そんな生活だった。けれども、客を取ることはなかったので、体は十分に回復し、男手が欲しいときは、5階の人たちと一緒に働くこともあった。その方が、気も紛れた。
その日もマイクは、夜の帳が下りると、いつものブラウスとズボンに着替えた。ベッドやマッカランの置いてある棚を確認する。それとカウチ。手で、パンパンと誇りを払う。ちょっと首を傾げてから、青いショールを取ってくると、カウチに座る。そして横に置いてある本を手に取った。今は、エドガー・アラン・ポーの短編集を読み直している。この部屋にある本は全て読み終わった本だ。新しい本を買うお金はないから、昔の客に貰った本を読み直すしかない。一度読んだ本は、一字一句覚えているが、それでも、活字を追うことは楽しかった。そんな風に、本に夢中になっていて、ドアが開いたことに気づかなかった。
「熱心だな」
「え?・・・あっ・・・ハーヴィー・・・」
自分の目の前に立つ男に存在に気づいて、マイクは慌てて本を閉じた。
「ごめんなさい。僕、気づかなかった」
「かまわない。・・・何を読んでいた?・・・ほう・・・ポーか」
「この短編集の中の、『黄金虫』が好きで・・・」
「暗号を用いた推理小説だな」
「読んだことが?」
「ああ、読んだ。君とは、本当に趣味が合うな。『アッシャー家の崩壊』は?」
「それは、読んだことはないです」
「読むといい。面白い」
「・・・機会がったら・・・」
マイクは誤魔化すようにして笑った。自分で本を買うことはできない。だから、勧められても、読むことはできない。けれども、ハーヴィーのせっかくの好意の言葉だった。だから、本当のことは言わない。しかし、ハーヴィーは、本を並べてある棚をざっとみると、こう言った。
「今度、持ってきてやる。貸してやろう」
「え?」
「・・・俺は物知らずじゃない。娼館に住む人間が、個人の物を持つことの大変さくらいはわかってる。しかし、君は友人だ。本ぐらい、貸す。そうしたら、また俺たちの話題も増えるというものだ。違うか?」
マイクは、少し間をおいてから、コクリと頷いた。
「それじゃあ、今夜のお楽しみとするか」
よく見ると、ハーヴィーは荷物を持っていた。以前、マイクを痛めつけて遊ぼうと、色々な拷問具を持ってきた客がいたが、それとは様相が違う。ハーヴィーが持っているのは、少し大きめのバスケットだった。ハーヴィーは床にバスケットを置き、バスケットの上に置いてあったブランケットを広げた。
「さあ、夜のピクニックだ」
ハーヴィーは悪戯っ子のように笑って言った。
ハーヴィーに促されて、マイクはおずおずとブランケットの上に座った。
「ピクニックって・・・」
「屋敷から、色々と持ってきた。まずは、ワインだ。ああ、グラスも持ってきたから、君は座ってろ」
グラスを取りに行こうとしたマイクをハーヴィーが制した。コルクを優雅に抜き、グラスに赤い酒を注ぐとマイクに渡す。
「ありがとうございます。・・・ああ、ボルドーだ」
「ワインの知識もあるのか?」
「いえ。ただ、ラベルがフランス語だし、それにボトルの肩がイカリ肩なので。ブルゴーニュならなで肩だから。・・・その程度の知識」
「それで十分だ。俺はワイン相手にくだらん蘊蓄を語る奴が嫌いでな。美味いものは美味い。それでいいだろう。違うか?」
「あはは。その考えには賛成。僕も難しいことはわからないし」
ハーヴィーも自分のグラスにワインを注ぐと、軽く上に掲げた。マイクもそれに合わせる。そして互いに一口、飲む。
「・・・ああ・・・軽めのワインですね。飲みやすいや、これ」
「酒は好きじゃないのか?」
「好きかどうかわかるほど飲んだことがないから。でも、これは・・・好き」
「そうか。それなら良かった。ボルドーは渋めの種類が多いんだが、今夜は酒よりも料理を楽しんでもらいたかったからな。マイク、夕食は?」
「いつものように、それなりに食べましたよ」
「いつもどんなものを食べてるんだ?」
「たいていは、パンと具沢山のスープかシチューです。今夜は、クリームシチューでした」
「肉や魚は出ないのか?」
「そのスープかシチューに入っている程度です。でも、お腹いっぱいは食べられるので」
「じゃあ、今は満腹か?」
「あまり、食欲がなくて。少し食べると、それで満足しちゃうんですよ」
「ふむ・・・。君は、食事を楽しんだことがあるのか?」
「え?食事を?・・・楽しむ?」
マイクは首を傾げた。食事は空腹を満たすための行為だ。それ以上に何を楽しむというのか。
「まあ、いい」
ハーヴィーはバスケットの中から、肉の塊を取り出した。マイクが興味深げに眺める。
「なに?それ・・・」
「ローストビーフだ。少し小ぶりの塊で作らせた。ここに持ってくるにはちょうどいいサイズだ。どうやら、食べたことがない顔だな」
「っていうか、そんな肉の塊を見るのも初めて」
「外側はしっかりと焼くが、中はレアでジューシーだ。そして、ローストビーフを切り分けるのは、一家の主人の仕事とされている」
「へぇ・・・」
「だから、俺が切ってやるから、待ってろ」
そう言って、ハーヴィーは大きなナイフとフォークを取り出すと、薄く肉の塊を削ぐようにして切った。スーッと1枚を切ると、今度は食事用のフォークで軽くたたみ、突き刺してからマイクの方へと差し出した。
「ほら、口を開けてみろ」
マイクはその強引な物言いに、反射的に口を開けた。すぐにその中に、肉を優しく押し込まれる。マイクは唇と歯を上手に使って、肉をフォークから離すと、ゆっくりと咀嚼した。肉だけを、こんな風に食べたのは初めてだった。肉といえば、スープやシチューに入っている、破片のようなものしか知らなかった。マイクは、柔らかなローストビーフを十分に咀嚼するとゆっくりを飲み込んだ。
「どうだ?」
「美味しいです」
「肉そのものの味がわかったら、今度は、クランべリーソースをつけてみるか」
ハーヴィーはまた、ローストビーフから肉を薄く削ぎ落とすと、くるりと丸めて、小さな容器には言いたソースを少しつけて、再びマイクに差し出した。濃い、とろりとした赤色のソース。甘酸っぱい匂いがマイクの鼻腔をくすぐった。口の中に広がる味は、先ほどとは違い、もっと深い味わいがする。ゴクリと肉を飲み込んだ後、マイクは思わず、口を押さえてしまった。あまりにも美味しすぎたからだ。食べ物を美味しいと思ったのは、初めてだった。もちろん、ハーヴィーに貰ったチョコレートは美味しかったが、あれはスイーツだ。食事とは違う。
「今度はサンドイッチにしてやるから、ワインでも飲んで待ってろ」
「サンドイッチ?」
「ああ、パンに肉や野菜を挟む。まあ、ジャムを挟む甘いサンドイッチもあるがな。今夜はローストビーフサンドだ。パンはバケットにした。少し固めだが、美味いぞ。うちの料理長がフランス出身でな。ああ、今度クロワッサンを持ってきてやろう。うちの料理長のクロワッサンは絶品だ」
知らない食べ物の名前が出てきて頭の中にたくさんのクエスチョンマークが現れるが、ここで質問したら興ざめかと思い、マイクは黙って、ワインを口にした。それよりも、ハーヴィーの手の動きが気になる。ハーヴィーの形の良い指が器用に動いて、パンにローストビーフや野菜を挟んでいく。
「ハーヴィー・・・上流階級の男の人って、そういうこと・・・するの?・・・貴方・・・スペクター家の主人だよね?」
「まあ、君限定だがな。それに今でこそ上流階級とは言われているが、元は一般庶民だ。いわゆる、成り上がりの上流階級だ。血筋じゃない。しかし、所詮、アメリカ人なんてそんなものだろう?」
軽く肩をすくめながら、ハーヴィーは言い、出来上がったローストビーフサンドをマイクに手渡した。
「あ・・・ありがとう。ハーヴィー」
マイクは素直にバケット・サンドを受け取ると、すぐに噛り付いた。そして、すぐに目を輝かせる。
パンの端っこを食べただけなのに、その美味しさに驚く。
「・・・ハーヴィー・・・このパン、すっごく美味しい」
「パンがか?まだ、ロースト・ビーフにたどり着いていないようだが?」
「だって・・・パンに味がある。確かに外側は硬いんだけど、中の白い部分が柔らかくて・・・何だろう・・・このうっすらとした塩味?僕、パンとワインだけでも美味しいと思う」
「そんなことを言ったら、うちの料理長が泣くぞ」
ハーヴィーが笑いながら言った。そして、
「君は毎日、どんなパンを食べてるんだ」
「どんなって・・・まあ・・・普通の・・・パン?固くもないし、柔らかくもないし・・・でも、こんな味はしない。いつもシチューやスープにつけて食べるから、別にそれで良いんだけど・・・」
「どうやら、美味しくないから、シチューやスープにつけてるようだな」
「ん・・・それは・・・そうかも。そもそも、さっきも言ったけど、食事が美味しいなんて、思ったことないし」
「今は?」
「・・・美味しい。すっごく、美味しい」
マイクは笑って、サンドイッチを食べ進めた。何だか、小動物を餌付けしているようで、ハーヴィーは面白くなってきた。こうして見ていると、意外にもマイクの表情は豊かなのだな、と思う。もちろん。娼館で暮らす人間特有の、何処か諦めたような、投げやり空気を纏う時もあるが、本来は素直で、感受性の高い青年なのだろう。
サンドイッチを食べ終わったマイクが、指についてしまったソースを拭うものを探している様子を見て、ハーヴィーは腕を伸ばしてその手首を掴んだ。
「えっ・・・」
そして、指先を口に含んで、ソースを舌で舐め取ってやる。
「うわぁ・・・ハーヴィー・・・」
顔を真っ赤にしながら、マイクが手を引こうとする。けれども、ハーヴィーは指先については自分の口から解放してやったものの、マイクの手首を離さなかった。
「随分と初心な表情をするんだな」
「は・・・恥ずかしいよっ!・・・まだ、セックスする方が恥ずかしくないっ」
「・・・君にとって、セックスとは何だ?」
「そんなの・・・仕事だよ・・・。ああ、でも・・・貴方のおかげでこの1週間は客を取らなくて済んだから、すごく体が楽で・・・助かったから・・・ありがとう。でも、そろそろ大丈夫だから」
「大丈夫って、何がだ?」
「僕が今まで通りに客をとるってこと。客を取らなくちゃ、僕はここでは暮らしていけない。仕事もしないのに、ここにいるわけにはいかないから」
「女将に何か言われたか?」
マイクは首を横に振った。
「言っただろう。女将にはそれなりのことをしてある。君は客を取る必要はない」
「・・・それは、違うと思う。貴方が・・・ハーヴィーが僕の客なら、それでいいと思う。でも、貴方は僕を抱かない。それに・・・友人になろうって・・・。僕とハーヴィーは・・・ただの友人なんだから・・・だから・・・その・・・ああ・・・何て言ったら言いのかな・・・」
マイクが困ったように俯いた。本当は簡単なことなのだ。マイクは娼館の人間だから、客を取って金を稼ぐことが普通なのだ。それが、どんな思惑かはわからないが、ハーヴィーの策で、自分が何もせずに娼館にいることは許されないと思うだけなのだ。それを上手に伝えられない。仕方なく、マイクは言った。
「貴方が何て言おうと・・・僕は、客を取るから。・・・もちろん・・・僕を求める客がいれば・・・の話だけど・・・。そうでなかったら、そろそろ、5階に行く頃合いだと思うし」
マイクは唇を噛んだ。
「・・・君の気持ちは、わかった」
ハーヴィーは気を悪くした風でもなく、マイクの手首をそっと離した。
「しかし、俺と君の関係は変わらないな?」
「えっと・・・友人関係?」
「ああ」
「うん。・・・貴方みたいな友人ができて、僕は嬉しい」
「その友人として、助言させてもらおう。・・・君の選択肢は2つしかないのか?男娼として生きるか、5階に行って娼館の下働きとして生きるか。・・・その2つしかないのか?他に考えたことはないのか?」
マイクは顔を上げて、真っ直ぐにハーヴィーを見つめた。そして言う。
「・・・考えることに意味が・・・あるの?」
ハーヴィーはその言葉に軽く眉を顰めた。マイクを包む雰囲気が一瞬で変わったからだ。幼い頃から、この娼館で暮らしてきたマイクには、他の選択肢など考えつかないのだろう。この部屋か。5階か。それ以外の道など、空想したこともないのだろう。しかもマイクは男だ。女なら、愛人として身請けされる・・・という道もあるが、マイクにとってそれは考えにくい。
ハーヴィーの表情が曇ったのを察して、マイクは笑顔を作った。
「ごめんなさい。ちょっと現実を言ってみただけ。ハーヴィーは悪くないんだ。貴方には本当に感謝してるんだよ。・・・あの・・・1週間前の紳士にされたこと、本当に辛かったんだ。体が。僕たちはモノ扱いしかされない。特に、僕みたいな男はね。でも、ハーヴィーのおかげで体は回復してて・・・それに、今日は食べることがこんなに美味しくて楽しいって初めて知った。ありがとう、ハーヴィー」
マイクは客に対する媚ではなく、心から本気で微笑んだ。
「いや・・・俺も厳しい言い方をした。すまない」
「ハーヴィーは友人として、僕のことを心配してくれたんだよね?すごく嬉しい。・・・それよりも・・・ねえ、バスケットの中にまだ何かありそうなんだけど?」
マイクが悪戯っ子のように首を傾げた。この場の空気を変えようとする。
「ああ・・・そうだ。フルーツも持ってきた」
「ええ?凄い!ここではそういうの、食べられないから!見てもいい?バスケットの中!」
「ああ。いいぞ」
マイクが膝で移動してバスケットに近づく。そして、中から2つの入れ物を取り出した。
「開けるね?」
蓋を開けると、爽やかな香りが広がった。
「オレンジとブラックベリーだ。オレンジは買ったものだが、ブラックベリーは屋敷の庭で採れたものだ。うちの庭師の力作だ」
「じゃあ、ブラックベリーから食べなくちゃ」
マイクは指を伸ばして、ブラックベリーを摘んだ。どれも綺麗な形をしていて、黒い宝石のようだった。
「初めて食べるのか?」
「うん。・・・っていうか、僕、リンゴ以外の果物って食べたことがないかも・・・食事に出ないから・・・」
「じゃあ、リンゴは何処で食べたんだ?」
「ほら。僕を描いてくれたフランス人の画家がいたでしょう?あの人、リンゴを齧りながら絵を描く人だったから。その、お裾分けをもらって食べた。甘酸っぱくて、美味しかったかなぁ・・・」
思い出すように、マイクの視線が宙を動いた。
「ブラックベリーは酸味と渋みがある。甘さはあまり期待するなよ」
「そうなの?こんなに艶々してて、綺麗なのに」
マイクはひょいっとブラックベリーを口の中に入れて噛んだ。確かに、酸味と渋みがある。けれども、その奥には、微かな甘みがあった。
「美味しい。ハーヴィーが言うから、もっと酸っぱくて苦いのを想像しちゃってた」
「気に入ったか?」
「うん。もっと食べていい?」
「全部、君のだ。砂糖を入れてジャムにするともっと美味い」
「へぇ・・・ハーヴィーも事業でジャムを作って売ったりしてるの?」
「いや・・・屋敷でメイドやシェフが作るだけだが・・・」
「えー。せっかく砂糖の取引をしてるのに勿体無い。何て言うのかな、そういうジャムみたいな・・・加工品?そういうのも作って売ったらいいのに。ジャムを作る人手も必要だから、雇用も増えるよね」
ブラックベリーを食べながら、そんなことを簡単に言うマイクに、ハーヴィーは正直驚いた。加工品と雇用。考えたことはなかった。しかし、マイクの言うことにも一理あった。やはり、賢く、聡い青年だと感心する。
「どうかした?ハーヴィー。オレンジも食べていい?」
「ああ、もちろんだ」
スマイルカットされたオレンジの皮を、器用に剥きながら、マイクはオレンジも美味しそうに食べ始めた。その姿を見ながら、ハーヴィーは新しい事業のことを考えた。加工品と雇用。新しい着眼点だった。オレンジの汁でべたついた指を舐める顔に何処か、あどけなさも感じる。しかし、やはり、この娼館で生かしておくには勿体無い何かを秘めている青年だった。
ふと、ハーヴィーの視線がマイクの右耳に止まった。
「マイク、君はピアスをするのか?」
今まで気づかなかったが、耳朶に小さな穴が開いている。
「え?あ・・・ああ・・・これ・・・」
マイクは指先で自分の耳朶を触った。
「2、3年前かなぁ・・・客に太い針で無理矢理開けられた。そういうのが好きな人みたいで・・・。左もやられたんだけど、そっちは塞がっちゃった。危うくね、全身にピアスの穴を開けられそうになったんだ。流石に商売道具にならなくなるからって、女将がやめさせてくれたけど。まあ、仕方がないよね。僕は男だから、大概の客は乱暴に扱ってもいいと思ってるんだ」
「触っていいか?」
「いいよ。もう、痛くないから」
ハーヴィーがマイクの両方の耳を触って確認したが、残っているのはやはり右側だけだった。
「それで?君はピアスを持っているのか?」
「まさか。女の子じゃないから、必要ないよ」
マイクが笑って言った。
「ふむ」
ハーヴィーは、再びブラックベリーに手を伸ばしたマイクを見ながら、この先のことに思いを巡らせた。