ハーヴィーのオフィスから夜の街を見下ろす。街灯やビルの灯り、あるいは自動車のランプが、N Yの夜を彩っている。力のあるも者だけが得ることのできる風景。
ハーヴィーに指示された書類を完成させてオフィスに届け、チェックを待つ間、マイクはソファではなく、窓から夜景を見たくなったのだ。仕事の後の爽快な疲労感。100%とは言わないが、自信はある。自信がなければ仕事でハーヴィーの隣に立つことは許されない。それは、マイクがハーヴィーの部下となって覚えたことの1つだった。
パサリと書類をデスクに置く音が聞こえた。
「完璧だ」
「本当?」
マイクは振り向いた。ハーヴィーが満足気な笑みを浮かべながら立ち上がった。そしてマイクに近づく。
「スペルミスの1つや2つ、あったんじゃない?」
「ほう。あったのか?」
マイクは首を横に振った。ない。何度も見直した。骨子もそうだが、スペルだって確認した。
「君は賢くて、聡い。俺が言わんとすることをきちんと予測できる。そういう頭の良さは大好きだ」
手のひらで頭をぽんぽんされる。
「子供じゃないよぅ」
「そうだな。それじゃあ、裁判の準備が整ったところで、前祝いでもするか」
「もう、勝訴した気分?」
「負けるはずがないだろう。君の準備は完璧だ。・・・酒を持ってくる」
「あ、手伝うよ。っていうか、僕がやらなくちゃ。僕はハーヴィーの部下なんだし」
「ここは俺の城だ。お俺がやる。ソファで待ってろ」
「・・・ここ・・・じゃだめかな」
「ん?窓際がいいのか?」
「夜景がね・・・なんだか綺麗で」
「ああ・・・冬が近いからな」
「空気が冷えると、景色って綺麗に見えがちだよね」
「雪が降ったら、もっと綺麗になる」
「・・・雪が、空気中の不純物を包み込むから?」
「そういう理屈はよく聞くな」
スコッチの入ったグラスを持ったハーヴィーがマイクに近づく。
「悪くない」
マイクにグラスを渡しながらハーヴィーが言った。
「悪くないって・・・良いでしょ?この夜景。あ、そっか。ハーヴィーにとってはこれが日常だもんね。窓のないアソシエイトのオフィスとは大違い」
「まあ、そうだな。意識して、この夜景を見たことはないな。ただ、今夜は特別だ」
「明日の裁判での勝利を願って?」
「願わなくても、勝つ。それよりも、マイク。何が見える?」
「何って・・・」
マイクはスコッチに口を付けながら、外を見た。
「ビル。灯り。・・・夜空は・・・見えないなぁ・・・」
「もっと近くだ」
「え?近く?このビルの?」
マイクは窓に近寄り、下を覗き込もうとした。が、その顎を取られた。
「そうじゃない。・・・俺には、マイクの顔が見えるんだがな」
「・・・あ・・・ああ・・・」
鏡効果。
夜の窓ガラスは、鏡のように人を映す。確かに、夜景の中に、自分の顔が見える。そして自分の背後に立つハーヴィーの顔も。
「分かったか?」
「うん。灯台下暗し、みたいな?全然、気が付かなかった。・・・そうだね。鏡みたいだね」
マイクは笑った。それまでは景色にしか、目がいかなかった。
「駄目だな、僕。・・・物事は多面的に見なくちゃね」
「別に、仕事に絡めて言ったわけじゃない。俺だって、気付いたばっかりだ。夜景の中に、綺麗な顔が見えるな、と」
「僕はそんなに綺麗じゃないよ?」
「自分を卑下するな。いつも言っているだろうが」
「・・・貴方の隣に立つ以上は、ちゃんとするよ?でも・・・やっぱりさ」
マイクは俯いた。ネガティブ・モード。マイクの悪い癖だ。
「本当に君は、面白いな。力を認めてもらいたくて仕事を頑張って完璧にこなすくせに、変なところでそういうくらい顔をする。どっちの本当のマイクだ?」
マイクは思う。元来、自分はどちらかというと明るい性格だとは思う。仕事は好きだし、充実感がある。それをハーヴィーに認めてもらえたら、自分は仕事でハーヴィーの隣に立っていいのだ、という安心感を得ることができる。
けれども。
マイクは、気づかれないように唇を噛んだ。
やっぱり、自分は何処か汚いのだ。
何度もハーヴィーに上書きをしてもらっているとはいえ、自分の過去は消すことも変えることもできない。
「あ・・・」
マイクは1歩、窓から離れた。一瞬、トレヴァーの顔が見えたような気がした。記憶の断片。
「マイク、俺を見ろ」
ハーヴィーが窓ガラスを指差す。そこには、トレヴァーではなく、愛する人の顔がある。
「裁判が終わったら、クリスマスだな。マンダリン・オリエンタルに部屋を取った。あのホテルのレストランもなかなかいい」
「そっか。クリスマスだ」
「忘れていたのか?」
「ううん。街はイルミネーションだらけだし。ただ、ここのところ、書類に没頭してたから」
「そうだな。ホリデー・シーズン前は仕事が多い」
「えっと・・・プレゼント・・・どうしよう。貴方は何でも持ってるから、何をプレゼントしたらいいか、わからないんだ」
「そうだな。それは、そのうちリクエストすることにしよう」
「欲しいもの、教えてくれるの?」
「ああ」
「よかったー・・・」
「君は、欲しいものはないのか?」
「いつも貴方に貰ってるから」
マイクはグラスを持っていない方の手で、ネクタイを指差した。貰ったのはネクタイだけではない。今着ているスーツもハーヴィーが誂えてくれたものだ。自分のアパートでは管理しきれなくて、ハーヴィーからのプレゼントは、そのままペントハウスに置いておくことが多い。そこで過ごす時間が増えたこともある。「いっそ引っ越してくればいい」とハーヴィーは言うが、その度にマイクは笑顔で誤魔化した。仕事では頑張れる。誰にも負けない自信がある。胸を張ってハーヴィーの隣に立つ覚悟はできている。・・・けれども、仕事を離れたら、駄目だった。自分には何の価値もないと思う。だから、自分の帰る場所は確保しておかなければならないと思う。いつ、愛想をつかされてもいいように。
マイクはスコッチを一口含み、そして嚥下した。酒の熱さが心地よく喉を焼く。仕事では見放されたくない。そこでしか、自分は自分の力を発揮できない。ハーヴィーは能力ない人間を嫌う。
「ハーヴィー。明日の裁判、僕も行っていい?」
「もちろんだ。君が来れば勝ち率が上がる」
「・・・僕、頑張るね」
「もう、十分頑張ってる」
ハーヴィーはマイクの持つグラスに、自分のグラスを合わせた。
硬質な、それでいて美しい音色がオフィスに響いた。
***
セントラルパークの南に位置する、マンダリン・オリエンタル・ニューヨーク。メインロビーが35階にあり、客室は全てその上階になる。ハーヴィーは、プレミア・セントラル・パーク・ビュー・スイートのカードキーでロックを解除した。
クリスマスディナーは35階のアジアートで済ませたが、ハーヴィーは恋人に声をかけた。
「何かルームサービスでも頼むか?」
「・・・ごめん。もう、お腹がいっぱい。っていうか、胸がいっぱい」
今、ハーヴィーとマイクがいるのはスイートのリビングだった。半円形を描くように配置されたソファとローテーブル。マイクはおずおずとそのソファに腰を下ろした。すぐにワイングラスを持ったハーヴィーが隣に座る。
「食事は美味かったか?」
「・・・ごめんなさい。あんまり、わかんなかった」
クッションを抱えながら、マイクは申し訳なさそうに言った。
「随分と君を高級な店に連れ歩いたつもりだったが、まだ足りなかったか」
慌てて、マイクがブンブンと首を横に振る。
「ち、違うってば!ほら、今日は・・・その・・・えっと・・・周りが・・・さ・・・」
「ああ。まあ、そうだな。クリスマス・イブだからな」
アジアートよりもグレードの高い店に連れて行ってもらった時の方が、まだ料理の味は分かった。けれども今夜はクリスマス・イブで、周囲はドレス・アップした男女ばかり。マイク的には完全にアウェイ。居心地が悪い、を通り越して居た堪れなかったのだ。しかも、夜景がよく見える一番いいテーブルだった。クリスマスでなければ、ビジネス会食・・・といった雰囲気も出せただろうが、どうやってもクリスマスを払拭することはできなかったのだ。だから、最高に美味しい料理だったはずなのに、味が全くわからなかった。せっかくのディナーを楽しめなくて、ハーヴィーの申し訳ないと思う。
「ごめんなさい。せっかく連れ行ってくれたのに」
「別にいい。食事は第一の目標じゃないからな。マイク、来い」
立つことを促されて、マイクはその通りにする。ハーヴィーに逆らうなんてことはしない。手を取られて窓辺に移動する。
「うわぁ・・・綺麗。オフィスやハーヴィの部屋とは違う景色だね」
セントラル・パークに面している部屋なので、ビル街の灯は少し遠い。笑顔で外を見入るマイクの横顔。青い瞳がキラキラしている。レストランにいる時は違って、何処か緊張の解けた表情だった。ハーヴィーはその顔を見ながら、マイクの背中をガラスに押し付けた。蜂蜜色の髪を撫でる。そしてその手を下にスライドさせて、ジャケットに手をかけた。
「えっと・・・自分で脱いで、シャワーを浴びてくる?」
「いや、いい。このままで」
「ここで?外から見えるよ?」
「セントラル・パークだから心配ない」
「・・・僕は逃げないよ?」
「知ってる。・・・ここがいい」
「変なハーヴィー」
そんなやりとりの間にも、ハーヴィーの手はどんどんマイクの着衣を脱がせていく。マイクも靴を脱いだり、ハーヴィーのジャケットを脱がせたりする。
「んっ・・・」
口付けられて、一瞬、身体が熱くなる。ガラスに押し付けられた背中がひんやりとする。けれども、それが気持ちいい。心が、熱くなる。ハーヴィーに触れられた時の正しい反応。腰を引き寄せらて、身体がガラスから離される。が、すぐに反転させられた。
「あっ・・・」
マイクは咄嗟にガラスに手を付いた。
「ハーヴィー?」
ハーヴィーはそれには応えずに、背後からマイクの皮膚を弄った。
「え・・・あ・・・や・・・あ・・・ハーヴィー・・・?」
首筋にかかる吐息。身体を這いずる手のひら。
「やっ・・・」
息が詰まる。誰?・・・ハーヴィー・・・本当に?いや、この部屋のいるのは、自分とハーヴィーの二人だけ。それなのに。
マイクの身体が自然と硬直する。
怖い。顔が見えない。誰?・・・もしかして・・・トレヴァー?
ひゅっ・・・とマイクの喉が鳴った。ガラスに付いた指に力が入る。自分の後ろにいるのは誰?本当にハーヴィー・スペクター?・・・違ったら?
思考が過去に引き戻されそうになる。古ぼけたアパート。暴力という名のセックス。心の壊れた人形。
「あ・・・ああ・・・あああああ・・・」
身体が震える。誰?誰?誰?誰?呼吸が・・・苦しい。
「マイク」
名前を呼ばれ、顎を取られる。
「目を開けるんだ」
耳元で囁かれる。間違いなく、ハーヴィーの声。マイクは確かめたくなって、そっと目を開いた。
「ガラスを見ろ」
「え・・・」
「’誰が映っている?」
マイクは、ガラスの向こうの闇の中を見た。闇の向こうはオレンジの灯り。他には何も・・・。
「もう一度、言うぞ?誰が、映っている?」
「映って・・・る?」
マイクは視点をもっと手前に合わせた。
「あ・・・ハーヴィー・・・?」
「ああ。俺だ。それに君も」
鏡効果。闇の中のガラスが鏡となり、自分とハーヴィーの顔を映してる。自分の後ろにいるのは、ハーヴィー・スペクター。トレヴァーの顔ではない。
「安心したか?・・・ゆっくり、呼吸しろ。深呼吸だ。4カウントで吸って、それと同じ長さで息を吐け」
暗示にかかったように、マイクは言われた通りにした。最初は、酸素が肺の中に入っていかない感覚があった。けれども、数回、深呼吸を続ける。
「とにかく、全てを吐き出せ。吐ききったら、吸えるから」
言われて、息を吐くことに集中して時間をかける。そうすると、少し、呼吸が楽になったような感じがする。マイクは、呼吸を整えると、もう一度ガラスを見る。ハーヴィーの顔を探す。闇の中に映る、表情はほどく優しい。
「君の後ろにいるのは、俺だ。理解できたか?」
マイクはコクコクと頷いた。
「君の美しい瞳と賢い頭に記憶しろ。そして忘れるな」
ハーヴィーは背後からマイクを抱きしめ、その肩に顎を乗せる。表情は笑顔。マイクの好きな顔。
マイクはそろそろと手を後ろに回し、ハーヴィーの頬に触れる。温かい。
「マイク、愛している」
ハーヴィーの言葉でマイクの心臓が跳ねる。昔、自分を後ろから犯した男は、こんな表情ではなかった。こんな声ではなかった。もっと、残虐で、冷たかった。けれども、ハーヴィーは違う。優しくて、暖かい。
「・・・僕も・・・好き。・・・愛してる」
「いい子だ」
ハーヴィーがマイクの手のひらにキスをする。
「隣の部屋に行くか」
ベッドルームに誘破れる。けれども、マイクは首を横に振った。
「このままで・・・ここがいい。ハーヴィー・・・続けて。後ろから・・・僕を愛して」
「・・・いいのか?」
「うん。・・・こうして僕を抱くのは、ハーヴィーしかいないって、記憶したから。もう・・・大丈夫」
ガラスの中のマイクが微笑む。自分の中からトレヴァーの存在が薄くなる。きっと、消えることのない記憶だけれども、頭の奥底に閉いこんで、鍵をかけることはできる。
「ハーヴィーの顔を、もっとしっかりと焼き付けたい。僕の後ろにいるのは、ハーヴィーだって。ちゃんと覚えるから。お願い」
「そういう可愛いことを言うと、こっちは歯止めが効かなくなるぞ」
「いいよ?・・・ハーヴィーは僕に何をしたっていいんだから」
「優しくする」
「ハーヴィーはいつだって、優しいよ」
ハーヴィーが、ふっと笑って、身体を密着させる。
「覚悟しとけ」
「ん・・・」
マイクは、手のひらをガラスに押し付けた。頸にキスを送られる。熱い吐息はハーヴィーのもの。他の誰でもない。愛する人のもだった。
***
「ねえ・・・本当にこんなんでいいの?」
マイクがキッチンで鍋をかき混ぜながら、不安そうにハーヴィーに問う。
「いいだろう?俺が欲しいんだから」
「だからって、クリスマス・プレゼントに僕の作ったミートソース・パスタって・・・。パスタの美味しいお店に行ったっていいのに」
「君の作ったのがいい」
「んー・・・」
釈然としない表情をしながらも、心の奥底ではちょっと嬉しかった。祖母のレシピ。マイクの一番得意で好きな料理だ。ただし、人参があまり好きではないハーヴィーのために、微塵切りではなく、すりおろして入れている。その分、トマトの量を調整してある。
「ああ、そうだ。俺からのプレゼントだがな」
「え?プレゼントなら、もう貰ったけど?ほら、ホテルのディナー」
「馬鹿。あんなものがプレゼントになるか。だいたい、君は味もわからなっかたんだろう?」
「あはは〜」
「・・・君のアパートを引き払った。荷物は全て貸し倉庫に入れてある。後で一緒に行って、必要なものを取ってこよう」
「ちょ、ちょっと待って!アパートを引き払ったって・・・どういうこと?」
「そのままだ。君は、この先ずっと、ここで俺と住む。まあ、引っ越しをしてもいいんだが」
マイクは慌てて、火を止めた。
「ハーヴィー・・・何してるの?」
「部屋の鍵よりも、一緒に暮らす空間の方がいいだろう?まあ、もう暮らしているようなもんだがな」
確かに日常のほとんどをハーヴィーの部屋で過ごしている。しかし、無断でアパートを引き払いうとは。
「・・・もう、引き払っちゃったんだ」
「ああ。暗視しろ。荷物は捨ててないから」
「・・・それって・・・ものすごく大きすぎるプレゼントだ」
「嫌だったか?」
「・・・ううん。ちょっとびっくりした。でも・・・いいの?」
「ああ。それに、君から俺へのプレゼントにもなるだろう?首に赤いリボンをつけてやろうか?」
悪戯っ子のようにハーヴィーが微笑む。狡い笑顔だ。この表情されると、マイクは何も言えなくなる。
「いいの?僕に、そんな価値がある?」
「あるさ。あるから、俺の隣にいるんだろう?もっと自分に自信を持て」
「・・・ハードルが・・・高いよ・・・」
「何を言ってるんだ。俺の優秀なアソシエイトが」
「ん・・・仕事は頑張る」
「俺のパートナーとしてもな」
「・・・そのハードルが高いんだってば!もうっ」
マイクがハーヴィーに背を向けて、再び鍋をかき混ぜ始める。その姿を、微笑ましく眺める。
あの時。面接会場にマイクが飛び込んできた時。随分と綺麗な青い瞳の子犬が入ってきたと思った。それに素晴らしい記録力。才能のひとひら。
そして、愛した。少し怯える子犬が自分に心を開いくていく様子を見るのが愛しかった。
ハーヴィーは鍋をかき混ぜるマイクを後ろから抱き締めた。ひくんっと、震えたが、すぐに腕の中に恋人は身体の力を抜いた。
「なあ、キッチンでするのもいいと思わないか?」
「ハーヴィー・・・」
「どうだ?ん?」
「・・・はぁ・・・僕がそういうの、逆らえないって知ってるくせに・・・」
マイクはスパチュラから手を離した。そして、ハーヴィーの腕の中でくるんっと向きを変える。
「ノリが良くて何よりだ」
ハーヴィーはマイクを抱えて、クッキング・テーブルにその身体を乗せる。
「ねえ、ハーヴィー?」
「どうした?」
「・・・ハッピー・メリー・クリスマス。・・・大好きだよ」
自分よりも下にあるハーヴィーの頬に両手を添える。そしてかがみ込み、キスをする。ハーヴィーもそれを受け止め、マイクの腰を強く抱く。
クリスマスは、まだ終わらない。
END