それから、3日ほど、ハーヴィーはマイクの顔を見ることはなかった。ドナの話によると、どうやらルイスに仕事を押し付けられたらしい。「俺の所有物を勝手にこき使いやがって」という思いと、その一方で「経験を積めばそれだけマイク自身のキャリアにもなる」という思いがないまぜになる。しかし、ここは、後者と考えることにした。
ただ、ドナが気になることを首を傾げながら呟いた。
「コーヒーを取りに行ったときマイクに会ったんだけど、何だか顔色が悪かったのよね。今年は寒波だっていうし、風邪でもひいたのかしら」
心配そうに眉を顰めるドナを見ながら、ハーヴィーもふと考え込む。
確かに、いくら互いの仕事が忙しいとはいえ、3日も顔を合わせていないことは初めてだった。だいたいマイクの方がどうでもいい理由をつけてハーヴィーのオフィスに来るのだ。それが、ない。そのことには、ドナも気づいているのだろう。じーっと、自分を見詰める赤毛の秘書に一言、「ちょっと出る」とだけ言って、ハーヴィーはオフィスを後にした。
アソシエイトの集まるオフィスへと向かう。
ハーヴィーの出現に、若いアソシエイトたちは半ば直立不動になるが、そんな連中にハーヴィーは目もくれなかった。マイクの席に、その姿を探す。しかし、イヤホンで音楽を聴きながら書類と格闘するマイクの姿はなかった。妙に綺麗にデスクの上が片付けられている。
「おい。マイクは?」
近くにいた気弱そうなアソシエト、ハロルドに問う。
「あっ・・・あの・・・あの・・・」
「さっさと答えろ」
「その・・・そ・・・早退しましたっ」
「早退?」
ハーヴィーはハロルドを睨みつけた。早退するなら、直属の上司である自分に斷るべきであり、しかも、ドナも知らなかった。
「ルッ・・・ルイスの許可は取ったって・・・。仕事は家でやるからって、たくさん書類を持って帰りましたっ!」
それだけ言って、ハロルドは脱兎のごとく、その場から逃げ出した。いや、彼だけではなく、その場にいたアソシエイト全員が。そのくらい、ハーヴィーの表情は険しいものになっていたのだ。
「ちっ」
裁判は明日だ。いつもは置いてきぼりだが、今回はマイクが準備した膨大な書類が裁判の鍵になっている。ご褒美に一緒に連れて行ってやろうと思っていた。それが、早退?
ハーヴィーは上着の内ポケットから端末を取り出し、マイクに電話をかける。しかし、彼が出ることはなく、メッセージを残すことを求める機械音しか聞こえなかった。ハーヴィーは裁判所で落ち合う時間だけをメッセージとして残し、端末をしまった。
そして、翌日。
マイクは裁判所に現れることはなかった。
「ドナ!マイクが裁判に来なかった!」
事務所に戻るなり、ハーヴィーが怒鳴る。
「嘘!いつだってマイクは裁判に行くことを楽しみしていたのに!」
「しかし、来なかったんだ!だいたいあいつは今日出勤しているのか!?」
「ちょっと待って!」
ドナが何処かに内線をかける。そして、すぐに表情が曇った。
「ハーヴィー。マイク・・・今日は出勤していないわ。理由は・・・誰も知らない。連絡もなかったって」
経歴を詐称しているマイクには、些細なミスも許されない。遅刻や早退も査定に響く。無断欠勤ならなおさらだった。仕事でミスをするのとは違い、人となりが評価される。しかも、マイナスに。
「やっぱり、風邪をひいて、それをこじらせちゃったのかしら。いやだわ、私。あのとき、もっとマイクに気を遣ってあげるべきだった」
「健康管理も仕事のうちだ」
「ハーーヴィー。そんな冷たい言い方しないで。なんだか、心配じゃない?マイクは決していい加減んな子じゃないわ。きっと何かあったのよ」
「・・・何かって?」
「それは・・・わからないけど」
「ドナ、レイに車を回すように言ってくれ」
「わかったわ」
ハーヴィーは、早足でエレベーターホールに向かった。
マイクのアパートの前でレクサスを停めさせる。レイを返すことはせず、その場に待たせる。
ハーヴィーは車から降り、古びたアパートのエントランスへ向かった。
寒波の波。冷たい風。細かな雪のひとひら。そんなものをものともせずに、ハーヴィーは薄暗い階段を上る。
バンバンとドアを叩く。しかし、中からの返答はなかった。物音一つ、するわけでもない。ドアノブを回すと、それはなんの抵抗もなく動き、ドアが開いた。
「不用心な」と思いつつも、ドアをけ破るよはマシか、と思い直す。
「マイク!いるか?」
相変わらず、返事はない。しかし、薄暗い部屋の中で、小さなダイニングデーブルだけを照らす灯りの存在で、住人が留守ではないことがわかる。テーブルの上には書類が散らかっているようだった。
ハーヴィーは部屋に入り、2つのことに気づいた。それは外と変わりのない寒さと、突き刺すような甘ったるい香りだった。
「マイク?」
書類の散らばったテーブルの下に人が転がっている。マイクだった。まるで仕事している最中に気を失って椅子から落ちたような体勢。慌てて近寄り、マイクの上半身を抱き起こした。そして、一層強くなる、甘い香り。
「マイク!」
「・・・ん?・・・あ・・・ハ・・・ハーヴィー?」
うっすらと目を開けたものの、その瞳は何処か虚ろだった。抱き上げた体はシャツ越しでもわかるくらいに冷え切っていた。
「暖房も入れないで何をやってるんだ?」
「だって・・・あつい・・・。あつくて・・・」
「は?何を言ってる!冷え切ってるぞ、体は!」
「ごめん・・・ハーヴィー・・・電話・・・裁判・・・ごめんなさい・・・」
「そんなことはいい。病院に行くぞ!」
「ダメ・・・ハーヴィー・・・ごめんなさい・・・お願い・・・帰って・・・」
「倒れている人間をそのままにできるほど冷たい人間じゃないぞ」
「そ・・・じゃない。これ・・・病院に行っても無駄・・・ね・・・お願い・・・触らないで・・・」
苦しげにマイクが眉を顰める。
「君が何を言っているのか、全くわからん」
「いいから・・・僕のことは放っておいて、帰って・・・触らないで・・・大丈夫だから・・・死なないから・・・」
「寒波が来ているんだぞ?暖房も入れないで倒れていたら凍死だ!」
「いいよ!死んでも!頼むから、帰ってよ!」
マイクの口から出た力強い言葉は拒絶だった。しかも、自分を抱き起こすハーヴィーを押し返そうともがく。
「馬鹿か、君は!死ぬとか軽々しく言うな!」
「言うよ!わかんない?もう、限界・・・無理・・・事務所も辞めるから・・・」
「マイク!?」
聞き捨てならないことを言われ、マイクを抱く手に力が入る。
「ちゃんと説明しろ!俺が理解できるまで離さないからな!」
「・・・ハーヴィー・・・貴方、案外、馬鹿だよね。気づかないの?」
「だから、わかるように説明しろ」
「・・・薬が効かないんだ。・・・抑制剤が・・・効かないんだ。だから事務所にも行けなかった」
マイクはそれだけ言うと、ゆっくりと目を閉じた。
そして、それだけで、ハーヴィーは理解した。
何故、部屋が寒いのか。何故、甘い香りがするのか。
発情期だ。発情状態のせいで、マイクの体感温度がおかしくなっているのだろう。そして、この甘い香りはΩ特有のフェロモンだ。
「いつからだ?いや、わかった。君がばあさんのクリスマスプレゼントを買うために定時に帰りたいと言った日からだろう?」
「ははっ・・・前言撤回。やっぱり、貴方、聡いよ。馬鹿じゃなかった。さすが、ハーヴィー・スペクター・・・」
「茶化すな。それにしても一体どうしてだ?今まで、なんの問題のなかったろう。抑制剤は効いていたんだよな」
「聞かないで。ねえ、本当にお願いだよ。帰って・・・僕に触らないで」
「断る。凍死するかもしれない状態で放っておけるか」
ハーヴィーはそう言うと、一度マイクを床に横たえ、コートを脱いだ。それでマイクを包み、抱き上げる。
その体は予想外に軽かった。
「ちゃんと食べてるのか?」
「食欲・・・ない・・・ねえ、ハーヴィー・・・下ろして。もう、どっかそこらへんに転がしておいてくれていいから」
「もう一度言う。断る」
ハーヴィーはきっぱりと言い、冷え切ったマイクの部屋を後にした。